- 多かれ少なかれ 前編 -  

 

ばかみたいだ、と自分でも思う。

中学生じゃあるまいし、とか、ストーカーじゃないんだから、と自分を戒めてもみる。

もう止めよう、彼と会わない時間の電車に変えよう、そう思うのに。

でも、今家を出ないとあの電車には乗れない・・・という時間になると、私の決意はあっさりと崩れる。

急いでパンプスを履いて、彼が電車を待つホームへと急いでしまう。

話すどころか、目さえあったことの無い片思い。

彼女になりたい、なんてずうずうしいことは望んではいないけど、せめて、彼の笑顔を見てみたい。

これが27にもなるオンナのする恋か、と自分でも情けなくなるんだけど。

 

きっかけは、後姿だった。

昔から私は綺麗なうなじの人に弱い。

勝手な持論なんだけど、うなじが綺麗な人はたいていカッコイイと思う。

手も綺麗なら、ほぼマチガイない。

自分好みのその二つ(もちろん結婚指輪、も)を素早くチェックした私は、彼の横顔を見るために、

さりげなく立つ位置をずらした。

あ、好み・・・っていうか、理想そのもの?・・・っていうのが第一印象だった。

少し浅黒い肌も、甘いのに知性を感じさせる瞳も、少し微笑んでいるような口元も。

スーツにはちょっとゴツすぎるかも、という時計がどこのブランドの物なんだろう、と思った時、私は

もう恋に落ちていたのかもしれない。

彼はとても几帳面な性格のようで、いつも同じ時間の決まった車両に乗る。

だから、私さえその時間に合わせれば、毎日会うことは難しくなかった。

でも、たまに何日も彼がホームに現れないことがあった。

出張かな、それとも転勤になった?もしかして結婚して引っ越しちゃったとか?

嫌な想像が、次々と頭の中をかけ巡る。

こんなことなら、アヤシイ女と思われてもいいから、話しかければよかった。

ダメモト(古!)で、携帯のアドレスでも渡してれば・・・。

毎回そう思うのに、彼がホームに戻ってくると、ただ胸をなでおろすだけで、やっぱり声なんてかけ

られなかった。

恋をしたことがないわけじゃ、ない。

学生の時も、会社に入ってからもそれなりにおつきあいしたことは、ある。

でも、いつも友達からなんとなく、とか、好意を示されてなんとなく・・・という感じで、こんな風に名前

さえ知らない人を一方的に好きになったことなどなかった。

一目ぼれ、っていう年じゃないことくらい自分が一番良く分かってる。

それに、電車の中で見初められてしまう彼が会社でモテないわけない、ってことも。

自力で彼を見つけられないなら見合いさせるからね、と息巻く母と争ってばかりのここ数年。

誰だって、多かれ少なかれ妥協して結婚してるのよ、と母は父の目の前で物騒な事を言う。

妥協なんて、絶対やだ。

でも、こんなどうにもならないような恋に一年も費やせる年齢じゃないことくらい、分かってる。

もう諦めようよ。あの人が私に好意を抱いてれば、目さえ合わないなんてこと、ありえないんだから。

 

 

普通のOLである私にとって、一番嬉しいのは言うまでもなく金曜日の夜だ。

長かった一週間のお勤め終了、うう、今から何しよう、と私は会社を出る時からわくわくしていた。

彼氏いない組女子で飲むのも楽しいけど、今日みたいに予定のない金曜日の夜も、結構好き。

ツタヤでDVDを借りて、コンビニで甘いモノを買って・・・うーん、考えるだけで至福のひと時だ。

そうだ、そろそろあの雑誌が出てる頃だ・・・そう思って。

向かった雑誌売り場に、見慣れた横顔があった。

最寄の駅が同じなのだから、電車の中以外で会ったって、少しも不思議じゃない。

アタマではそう思うのに、心の中はパニックになった。

ど、どうしよう。

いつもはメイクしたて、髪も巻きたての朝だけど、今の私はかなりヒドイはず。

こんなことなら会社出るときにメイク直しすればよかった、髪だって伸びちゃってるし。

あっ、でも今彼について行けば家が分かる!表札見れば名前も!?

そこまで考えて、はたと我に返った。・・・・だから、ストーカーじゃないんだってば。

っていうか、むしろこのヒドイ顔を見られる前に退散しよう。私はそそくさとレジへと向かった。

ああもう、意気地なしだなあ、とコンビニを出たところで、あの、と声を掛けられた。

 

まさか彼!?と振り向いた私を追いかけてきたのは制服姿のコンビニのお兄さんで。

「あのー、商品忘れてます・・・」

すいません、と慌てて袋を受け取った私は、かなり真っ赤になってた、と思う。

もうホントやだ、どうしてこう私っておっちょこちょいなんだろう、と下げた視線を上げた途端、

店から出てきた彼とばちっと目が合った。

ぎゃーーっ、今の、見られた?

アリガトウゴザイマシタ、とマニュアルどおりの挨拶をしてきびすを返す店員さんの後ろの彼が、

私の顔を見てあれ、と驚いたように目を見開いた。

そして一度視線を落としたあと、もう一度私に視線を戻した彼は、軽く会釈してくれた。

知ってる顔だ、誰だっけ、あ、電車の中で会う子か。そんな風に考えを巡らせたんだろうな、と

いう間だった。

え?・・・あ、あの、そんな意味不明な言葉をもごもご言っているうちに、彼は私の横をすり抜けて

遠ざかっていった。

私の顔、覚えててくれたんだ・・・と、コンビニの袋を手に立ちすくんで彼の行く先を見つめてた私は、

かなり怪しかった、と自分でも思う。

もうその週末は月曜会った時には私も会釈してみよう、だの、あわわ何を話そうだの、ただでさえ

たくましい妄想を炸裂させてどきどきしていた。

一年もの間、見ているだけの想いが、やっと動き出す。・・・そう期待してたんだけど。

 

長い週末を終えて、ようやく来た月曜の朝、彼は一人じゃ、なかった。

楽しそうに彼に話しかけている女性が綺麗すぎて、ヤキモチを妬くどころじゃなかった。

寝不足なのか、彼の表情が不機嫌そうなのが二人の親密さをより際立たせていた。

浮かんだのは恥ずかしい、という気持ちだった。

あんなに綺麗な・・・・あんなに素敵な女性とつきあってるんだ。

私が一年間焦がれた彼の背中に自然に手を置き、車内を見渡していた女性と、目が合う。

長い睫に縁取られた、大きな瞳がまばたきをする・・・それだけで、女の私でもどきりとした。

ただ綺麗なだけじゃなくて、華があるというか・・・周りが輝いてしまうようなオーラに圧倒されそう

だった。

私・・・どこかでこの人に、会ったことがある。・・・・どこだろう?

こんなに目立つ人、知り合いなら忘れるワケない。・・・・・誰か芸能人に似てるのかな?

似た顔の女優さんがいてもちっともおかしくないくらい、彼女は紛れもない美人だった。

肌荒れになど悩んだことのなさそうなキメ細かい肌と、生まれてから一度も太ったことなどなさそうな、

すらりとしたふくらはぎが、私に告げる。

私なんかが敵う相手じゃ、ないと。

背伸びした彼女が、彼の耳元に口を寄せて何かささやき、可憐な花のように微笑む。

彼の横顔が少し怒っているように見えたのは、きっと照れているのだろう。

朝の通勤電車の中のカップルが周りからどう見られるかなんて、サラリーマンなら誰でも分かるもの。

 

自分が、彼と知り合えさえすればどうにかなるかも、と思い上がってたことが笑えた。

そうだよね、当たり前だよね。あんなにカッコいいんだもん。

私が同じ会社のコでも、ほっとかないもん。

ばかだなあ、私って。何か始まるかもしれないと、思ってたなんて。

勝手に想って、勝手に失恋しただけの恋。

ううん、恋なんて呼べないモノだったのかもしれない。

もう、忘れよう。これ以上彼を見つめていてもつらいだけだもの。

・・・・・でも。

一度でいいから・・・彼の笑顔を見てみたかったな・・・。

 

次の朝から、私は電車を一本遅らせた。

一本違うだけでこんなに!?と思うくらい、ひどく混んでいる車内は息苦しい。

一週間、二週間。

会わない日を重ねていけばきっと忘れられるはずだと信じてた。

話したこともないんだもの。名前も年も、結婚してるのかどうかさえ知らない。

そんな相手のこと、会わないでいればすぐに忘れられるよね。

いつか、笑い話に・・なるよね?

・・・・なのに。

一ヶ月経っても二ヶ月経っても、彼の存在は私の中から消えてはくれなかった。

 

そろそろ春物のコートをクリーニングに出さなきゃ。

玄関先で空を見上げた私は、朝の風の爽やかさに目を細めた。

早く出過ぎちゃったかな。これじゃ、例の電車に乗れちゃう。

私はわざと歩調を緩めてのろのろと駅への坂道を降りて行った。

開店の準備をしているベーカリーから、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。

動き出す朝の気配の中で、コンビニの店員がゴミ箱の袋を取り替えていた。

あの日、彼が曲がって行った角。

そこを通るたび、彼を思い出している自分は、本当に執念深いと思う。

角で足を止めた私は、いつものように彼の家へと続く道に視線を移した。

今日はまだ、彼がこの道を通りすぎていないかもしれない。

偶然会ったりして、と考えた瞬間に苦笑した。

会いたくなんて、ないよ。会ってどうなるの。尚更忘れられなくなるだけじゃない。

なのに馬鹿な私を運命がからかうかのように、彼が歩いてくるのが見えた。

スリムな紺のスーツ、流行をおさえてはいるけど清潔感のある、髪。

私は慌てて視線を落として腕時計を見るフリをする。

彼だ、彼だ・・・・。

そう思うだけで、泣きそうだった。

自分は彼に会いたかったんだ、と十分に思い知れた。

彼女なんてそんな大層なモノになれなくても。彼にとって私が車内のただの一風景だとしても。

 

「あ、おはようございます」

低い、初めて聞く声に私は弾かれたように目を上げた。

「最近、お会いしなかったですね」

見たくてたまらなかった、彼の笑顔がそこにあった。

・・・・・・・嘘。

「おはよう、ございます」

どこから声を出してるのかよく分からなかった。

五年も働いて、会社ではどんなエライ人にだって臆さずに挨拶できるようになったのに。

「あ、あの・・・・・電車、一本後のに乗ることが多くなって」

どぎまぎと視線を泳がせながら言った。どこを見ていいのか、よく分からない。

「一本後のって、結構混まないですか?」

さりげなく歩くことを促された私は、彼と少し離れて横を歩く。

まるで、夢みたいだ。

彼と話す日が来るなんて。横を歩く日が、来るなんて。

「あ・・・ええと、そうですね」

でも、あなたと彼女が居る姿は見ないで済むし、と言えない私は自分の心に釘をさす。

そうだ、浮かれちゃいけない。あんなに綺麗な彼女がいる彼が、私に振り向くと思う?

 

そのあと二言三言、言葉を交わした。

その一つ一つを心にメモした。彼の声が「シ」の音なことも、名前の知らない彼の香りも。

「あ、一本、遅れちゃうかな」

時計をちらりと見た彼に、「先、行って下さい、私歩くの遅いし・・・」と言いながら、なんとか

笑顔をつくった。

本当はもっと一緒にいたい。・・・・・・・だって、これが最初で最後かもしれないし。

だから、僕も後のにします、という言葉は私の心を天まで昇らせた。

今日はまだ一緒にいられる。少なくても、今日だけは。

 

混雑した車内は、女にだって容赦ない。

パンプスを履いていてただでさえ足元が危なっかしいのに、扉の前のつり革って小柄な女には

高すぎるよ、と私は常々JRに文句を言いたいと思ってた。

でも、今日だけはそんなつり革に感謝した。

扉の脇の手すりに掴まれるように、彼が私を立たせてくれたから。

それにしても、満員電車で大きなリュックを背負う人って常識疑う!

ギュウギュウ押された私が思わず顔をしかめると、彼が片手を私とその人の間に差し入れ、

ドアに手をついてくれた。

手すりと彼に挟まれて、なんだか私は彼に守られてるような格好になった。

ふわりと香った彼の匂いに包まれて、私は泣きそうなくらい幸せだった。

夢なら、ずっとずっと、覚めたくないくらいに。

 

彼と知り合いたい、話したいと思ってた。

彼がどんな食べ物が好きなのか、たまに聴いてるipodには何の曲を入れてるのか、どんな

仕事をしてるのか。

でも、こうして近寄ってしまえばいっそのこと目も合わないままの方が良かったのかもと思う。

以前は彼と同じ会社で働いている女の子たちがうらやましかった。

でも、今は遠い存在で良かったと思う。

彼の近くで彼に片思いしているコは、私よりかわいそうだ。

もし彼女も同じ会社なら、あんな綺麗な彼女と彼が並ぶところを、見たくなくても見なくちゃ

いけないんだから。

私は、電車を変えるだけでいい。それでもう、何も見なくて済む。

彼の笑顔も、広い背中も、大好きなうなじも。

 

一駅先に下りる彼が、降りる寸前に私の耳元に口を寄せた。

驚いて、息が止まりそうになった。

自分の心臓の音が、うるさくて。

じゃあ、と囁かれた後、返事を言いよどんでいるうちに彼は電車を降りた。

彼の唇が、閉まったドアの向こうでまた、と動いた気が、した。

耳元から離れるときに、かすかに彼の頬と私の頬が触れ合った。

その感触がずっと離れなくて、その日は仕事どころじゃ、なかった。

 

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屋根を打つ音で雨だと知った私は、ため息をついて下駄箱から折り畳み傘を取り出した。

濡れた傘を入れる袋と、ハンドタオル、ストッキングの替えをいつもより大きめのバッグに入れる。

仕上げにパンプスへと撥水スプレーを吹きかけ、下駄箱の上の時計を見上げた。

「もう、何日会ってないのかな・・・・」

朝からつくため息は、迷信ではなく、本当に幸せを逃がしてしまいそうだ。

でも、もうなんの楽しみも無い梅雨の日の通勤なんて、ため息ぐらい出てしまうというものだ。

 

初めて話したあの日の翌日、私はいつも彼と会える電車のホームに立っていた。

彼女の存在を忘れたワケでも、何をどうしようと思ったワケでもなくて。

・・・・・・ただただ、会いたくてたまらなかった。

なのに彼はなかなか現れなくて、人ごみの中の彼を必死に探していた。

もうすぐ電車が着く、という時、ようやく彼が改札からホームへと続く階段を降りてきた。

あの彼女と、一緒に。

目をそらさなきゃ、見つからないように隠れなきゃと思うのに、凍りついたように動けない。

視線に気がついたのか、彼が私の方を振り返って、あ、という顔をした。

彼女が何、と彼の視線を追うのが見えた瞬間、我に返った私は二人に背を向け、滑り込んで

きた電車に足早に乗り込んだ。

ばかばかばか、私のバカ。

あの日の事を思い出すと、恥ずかしさで身体中が熱くなる。

私は、何を期待していたんだろう。

せめて少しでも近づけることを?

そのうち私を気に入ってくれることを?

そしていつの日か、彼女を捨てて私のところへ来てくれることを?

彼が彼女と朝いる事が何を意味するかなんて、子供にだって分かることなのに。

 

もう二度と、何も期待なんてしない。もう本当に、終わりにしよう。

そう思った私は逆に二本前の電車に乗ることにした。

もしも、もしも彼が私に会おうとしても、会えない電車。

思い上がりだということくらい・・・・・自分が一番よく分かってるけれど。

 

夜になっても、雨はあがらなかった。

金曜の最終電車の中は、倦んだ様な空気が満ちている。

雨のせいで曇ったガラス越しに、ぴかぴかと明るいネオンが滲むのが、ひどく寂しく見えた。

疲れたな・・・・今日はツタヤに寄る元気もないや。

降りたホームの半ばにある階段を目指して歩いて行くと、ベンチに見覚えのある横顔が

目に入った。

・・・・・彼だ。

誰かを待っているようなその横顔には疲れが滲んでいる。

私の乗ってきた電車で彼女が来ることになってるのかもしれない。今夜から週末だもの。

私は似合いすぎる幸せな二人を見たくなくて、足早に階段へと急ぐ。

ちらりと彼の様子を横目で伺うと、彼が立ち上がるのが遠目に見えた。

私は視線を正面に戻すと、階段を昇る人の波へとうつむいて紛れ込む。

急いでいるのか、スーツ姿の男の人が、私を押しのけるように階段を上がっていく。

その拍子に、その人が持っているびしょぬれの傘が私のむこうずねに当たった。

早く家に帰りたい。やだやだやだ。もう、何もかもが、やだ。

バッグを開けて、定期を取り出し、ピッという電子音で改札を抜け、私は家路を急いだ。

やっぱりツタヤに寄って、何か笑えるようなものを借りよう。

いつもはカロリーを気にして一つだけにしてるお菓子も、二つ買っちゃおう。

そのくらい、いいよね。

私くらい、私に優しくしても、いいよね?

 

傘を広げて、駅を出る。傘を穿つ雨音を聞きながら、私ってみじめだな、と思った。

彼に愛されている彼女が、たまらなくうらやましかった。

夜道を歩く彼女を心配して、ホームで待っていてくれる人がいる、彼女が。

私にも、いつか出来る?そんな人が、いつか現れる?

浮かんだ涙が零れ落ちないように、私は上を見て瞬いた。

 

バスのロータリーを囲むようにある商店街の歩道は、人がやっと行きかえるくらいの幅

しかない。

歩道に敷かれたレンガの上で、壊れた傘が雨に打たれ、濡れている。

後ろから、走ってくる人の気配を感じた私は、抜きやすいように脇へと寄って道をあけた。

みんな、そんなに急いでどこに行くのだろう。

そんなに誰かに会いたいのかな。

傘を傾けて止まっているのに、いつまでも追い越す気配がしない。

変なの。

再び歩き出そうとした私は、あの、と呼び止める男の人の声に、振り返った。

傘もささずに立っているその人を見た私は、思わず息を飲んだ。

嘘・・・・・なんで?

なんで彼がここにいるの?

 

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