- こんなにも -

よりにもよって、どうしてこの人を好きになってしまったのだろう。

詩織は、ななめ前に座る係長の顔をちらりと見たあと、うつむいた。

どの課にも一人はファンがいる、というのも頷けるくらい端正な顔立ちなのに、不思議と人懐っこい印象を与える

のは、少し垂れ目なせいだろうか。

違うフロアで働いていた頃から、詩織も他の女の子達同様、素敵な人だなと彼に憧れていた。

エレベーターなどで偶然一緒になった時は、それだけで一日を幸せな気持ちで過ごせたものだ。

だから、一年前の異動で、入社以来ずっと憧れの人だったその人の部下になれた時、詩織は自分の幸運を天に

感謝したものだ・・・でも。

好きな人に毎日会える、というのは確かにラッキーな事なのかもしれない。

ましてやこんなそばに座っていられて、仕事の事とはいえ話すことも、たまには課の飲み会に一緒に行くことだって

できるのだから。

でもそれは彼女もちじゃなければ、の話だ。

友達のなぎさは、妻子もちじゃないんだから、好きなら奪っちゃえ、なんて言うけど。

そんなこと、絶対出来ない、と詩織は思う。

係長が社内の、しかも直属の部下と恋をするほど迂闊な人じゃないことくらい、一緒に働いている詩織が一番良く

知っている。

それに。

詩織は大学時代の友達・・・真由の泣き顔を思い出す。

長くつきあっている真由がいることを知っていたくせに、同じサークルだという強みを生かして、その彼を奪った新

しい彼女。

若かったとは言え、なぎさも詩織も当の真由以上に二人を陰でなじったものだ。

誰かを不幸せにしてまで、自分が幸せになりたいとは思えない。

だからいい加減、彼を諦めなきゃいけないのは分かってるんだけど。

 

「沢田さん、忙しいとこ悪いんだけど、これいいかな」

そろそろお昼に出ようかな、と机の上を片付けだした詩織の上から、低い声がした。

顔を上げなくても、声の主が誰だか分かる。

詩織は跳ね上がりそうになる心を抑えて、出来るだけ落ち着いた声で応えた。

「あ・・・はい、何時までに仕上げればいいですか?」

係長は、んー、と少し首を傾げたあと、ごめん、二時までに出来るかな、と言いにくそうに言った。

ぱらぱらと資料をめくると、お昼をゆっくり食べてからでは厳しいが、今からすぐかかれば仕上げられそうだ。

「はい、大丈夫です」

早速取り掛かろうとパソコンに向かう詩織に、係長が慌てて声をかける。

「え、お昼食べてからでいいよ。一時間あれば、沢田さんなら・・・」

詩織は彼の声を遮るように、やってから食べます、と微笑んだ。

「私、焦るとダメな方なんです。終わってからチェックもしたいですし。

 気にしないでください、今日は金曜だし、ちょっとやっちゃいます」

まだ何か言いたそうな顔をしていた係長は、人が少なくなった室内を見回したあと、声を潜めた。

「あー・・・じゃあ、いつも沢田さんには面倒なことばっかりお願いしてるし、今度食事でも奢るよ」

大好きな人の誘いに、詩織の胸がどきりとしたあと、するどく痛んだ。

係長は、優しい。

飲み会で男性慣れしていない詩織がからかわれているとさりげなく話を反らしてくれたり、無理に飲ませようと

する部長との間に座ってくれたり。

それがたとえ残酷な優しさでも、嬉しい自分が詩織は情けなかった。

「いいえ、仕事ですから。ホント、気にしないで下さい」

にっこりと笑顔を作った詩織に、係長は少し困ったように微笑んだ。

なぎさならきっと、チャンスなのにバカね、って言うんだろうな。

 

一時過ぎに仕上がった資料を係長の机の上に置き、詩織は遅めの昼食に出ることにした。

仕事をしていた為とは言え、昼休み以外の時間にあまり席を空けるのも気が引ける。

詩織は、自社ビルから歩いて数分のドトールで軽く済ませることにした。

アイスカフェオレをテーブルに載せ、鞄の中から携帯を取り出す。

入社して浅い女の子たちは就業中でもしきりにメルチェをしているが、詩織にその度胸はない。

まあ、そんなにメールも来ないしね、と思いながら詩織は携帯を開いた。

一通だけ届いていたメールはなぎさからで、今日の合コンの待ち合わせ場所を知らせて来ている。

真由には女だけってことになってるからね、と念を押すなぎさの気合に詩織は苦笑した。

長い間彼がいない真由と詩織の事を、なぎさはまるでお母さんのように心配してくれている。

いつまでも失恋だの報われぬ恋だのを引きずっててもしょうがないでしょ、となぎさは会うたびに

叱ってくれもする。

でもね、と詩織は思う。

一人は確かに寂しいよ?

でも、好きでもない人とつきあうより、片思いでも、係長のことを想ってる方が幸せなんだけどな。

・・・・そんなの、ダメかな。

 

働き出して四年目、っていうのは微妙な年齢だな、と詩織は思う。

彼氏がいる子の中にはちらほらと結婚して会社をやめていくコも、いる。

逆にすごく仕事が出来て、チーフを任せられてるコたちも。

自分がそのどちらにも属さないことに、詩織はため息をついた。

自分のとりえは真面目な事だけだと、思う。

だから、他のコが嫌がる雑用も手間がかかる面倒な書類も、笑顔で引き受けることにしていた。

『断れない沢田さん』と、他の女子社員から揶揄されているのは知っている。

でも、特になんの才能もないのだもの。

せめて、出来ることを頑張るしかないじゃない。

そう思いながらも自分が断れないのは仕事だけじゃないかも、と苦笑する。

合コンって、苦手なんだけどな。

詩織は意味もなくぱたぱたと携帯を開け閉めしながらまた一つ、ため息をつく。

26で、彼氏もいなくて、仕事もたいして出来なくて。

でも、そんな自分を心配してくれる友達がいるだけでもありがたいことだよね、と自分を励ましながら、

目の前のホットドッグを一口かじった。

 

職場に戻ると、同期の桜井が詩織の席に座って係長と話していた。

「あ、沢田さん戻ってきた。じゃ、係長それよろしくお願いします」

立ち上がる桜井に詩織が軽く視線で挨拶をすると、彼は沢田さん今日暇?、と明るい声で尋ねた。

中高一貫の女子校出身の詩織は、男性と話すのがあまり得意ではないが、桜井には誰の懐にでもすっと

入り込んでしまう親しみやすさがある。

飲み会が苦手な詩織をいつも強引に同期の親睦会は強制、と引っ張って行くのも彼だ。

今日は金曜。また飲みの誘いだろう。

「ごめんなさい、今日はちょっと」

軽く首を横に振った詩織に、桜井はなんだよ沢田さんデート?とからかう。

詩織は周りの人間が仕事をしながらもさりげなく耳を澄ませているのを感じた。

「ち、違うってば、大学時代の友達と・・・」

頬を赤らめながら否定する詩織に、なあんだ良かった、と桜井が肩をすくめた。

え?と不審な顔をする詩織に、じゃ、明日空けといて、と桜井は、すれ違いざま、ぽんと彼女の肩を叩いた。

部屋を出て行く桜井の背中が消えた途端、係長が彼女を呼んだ。

「・・・・そういう話は、就業時間中にしないように」

いつもは優しくて穏やかな係長の声に棘が含まれていた気がして、詩織の心は沈んだ。

はい、と小さな声で答えた詩織は涙が零れないようにぱちぱちと何度もまばたきをしながら、目の前の書類

に集中しようと唇をかみしめた。

 

よく考えてみれば、明日は土曜なのに。

仕事を終え、帰ろうとした詩織は桜井の誘いの言葉を思い出してそうつぶやいた。

桜井くん、きっと明日も平日だと思ってたんだ。メールしとこう。

就業時間中は携帯を取り出さない詩織だが、もう六時を過ぎているし、部屋に今いるのは自分だけだ。

詩織は一度立ち上がった席に座りなおし、明日は土曜日だから飲み会は来週ってことでいいの?、と桜井に

送信した。

返事を待たずに帰ろうとした詩織を、携帯の着信音が引き止める。

詩織は鞄を机の上におくと、受話器を耳に当ててはい、と答えた。

「桜井でっす、お疲れ。や、明日だって。映画でも行こうよ、ってこと」

突然の言葉に戸惑う詩織の耳に、重ねて桜井が言う。

「あー、沢田さんニブいし、はっきり言わないと分かんないか。

 デートの誘いのつもりなんだけど。明日、なんか用事ある?」

デート?桜井くんと?

頭の中が混乱しながら、詩織は断りの言葉を捜す。

同期入社して四年間、桜井は詩織にとって初めての男の友達だった。

二人きりではないが、同期として何度も飲みにも行ったし、仕事の事でたまに相談に乗ってもらってもいる。

逆に最近まで桜井がつきあっていた彼女とのあれこれを聞かされたりも、していた。

だからまさか、桜井が自分に対してそういう気持ちを持っているとは思っていなかったのだ。

「用事・・・とかはないけど、私、多分今日遅くなるし・・・・」

しどろもどろに言葉を捜す詩織は、課の入り口のドアが開き、係長が部屋に入ってくるのを視界に捕らえた。

え、もう帰ったと思ってたのに。

「じゃあ何時でもいいからさ、明日、起きたら電話してよ。

 待ち合わせとかはその時相談すればいいし。・・・・じゃね」

詩織の返事も待たずに切れた携帯を片手に呆然としていると、いつの間にか近くに係長が立っていた。

 

「・・・・・桜井?」

そう問いかける係長の目が怒っているような気がして、詩織は身体をすくませた。

今日はよく係長に怒られる日だな、と詩織は悲しくなる。

詩織の作った書類に不備があっても、係長は怒ったり不機嫌になったりはしない。

それどころか、自分の指示があいまいだった、などとかばってくれるくらいだ。

その優しい係長が、怒っている。

詩織は仕事場ですいません、と早口で言うと慌てて携帯を鞄にしまおうとした。

その手首を、係長がつかむ。

・・・・・え?

「・・・・・・行くの?」

弾かれたように顔を上げると、係長の瞳が真剣な光を帯びて詩織を見下ろしていた。

二人の視線が交わり、沈黙が間に落ちた。

係長は詩織の手首を離し、その両手がそっと詩織の頬を包む。

何?何、これ・・・・?

その時、沈黙を破るように廊下から人の気配がした。

がやがやと営業から帰って来た男性社員二人が、お疲れ様でーす、と言いながら部屋へと入ってくる。

詩織は椅子にかけてあったジャケットを掴むと、係長の脇を失礼します、と通り抜けた。

あれー、沢田さん今帰りー?と訊いてくる男性社員に、お疲れ様でした、と無理に笑顔を作ってなんとか応える。

でも、係長の顔だけは・・・・・どうしても見れなかった。

 

係長とその彼女を街で見かけたのは、丁度一年前の今頃だった。

その日も金曜日で、詩織たちは同期の飲み会の二次会の店を探しながら歩いていた。

昼間のうだるような熱気がまだ残る夏の夜、一際目を引く、背の高い係長は誰かと携帯で話しているようだった。

隣に立つ彼女は、道行く人に配られていたのだろう、うちわで係長を扇いであげていた。

どう見ても親密なその様子に、詩織と同期の女の子たちはショックー、と言いながらいつもよりハイペースで飲んで

いたものだ。

自分の気持ちが憧れだ、と思っていた詩織は、その光景を見たことで、皮肉にもそれが恋心だったと思い知らされ

たことにもショックを受けていた。

そして、その彼女が自分とはまるで正反対の雰囲気を持つ人だ、ということにも。

詩織に自覚はないのだが、初めて詩織を見た人にとって彼女はどこか近寄りがたい雰囲気を持つ人、なのだそうだ。

そう言われて鏡を見れば、確かに自分の顔はどこかきついな、と思う。

ツンと澄ましている、だの、お高くとまってる、だの陰口を言われたことも一度や二度ではない。

多分、人に嫌われる何かを自分が持っているのだろう、と思うと悲しくなったが、生まれ持った顔を変えることはでき

ない。

せめて笑顔でいよう、と詩織はなるべく心がけてはいるのだが・・・。

係長と一緒にいた人は、柔らかな雰囲気を持つ、可愛らしい人だった。

男の人なら、誰でも守ってあげたくなるような、どこかあどけない女性。

翌日、同期の一人が果敢にも係長に真偽を問いただしに行ったらしい。

大学時代からの彼女だってあっさり認められちゃった、と次の飲み会で彼女は嘆いていた。

同級生だってさ、そろそろ結婚するんじゃないの、と。

そんなふうに、詩織の恋は気がつくと同時に、あっさりと望みを失ったのだった。

いっそのこと、彼女と早く結婚してしまって欲しかった。

そうすれば諦められるのに。

諦めざるを、えないのに。

 

待ち合わせ場所の居酒屋になぎさの姿はなく、代わりにいたその兄の姿に詩織は驚きのあまり言葉を失った。

遊び人と呼ばれていた大学時代とは全く違う堅いスーツ姿に、自然なこげ茶色の髪。

爽やかそうなその姿は学生時代と雰囲気こそ違うが、どこか色気のあるオーラは隠しきれてはいなかった。

「鬼畜た・・・じゃなくて、杉原先輩・・?」

口ごもる詩織に、ばれちゃったか、と杉原は肩をすくめた。

「詩織ちゃんにこんなにすぐバレちゃうようじゃ、変装失敗かな。

 でもさ、一応気づくまで真由ちゃんには内緒、でいいかな?」

人差し指を唇に当てながらウインクする杉原の笑顔に、詩織はどきりとした。

わあ・・さすがたらしのたっくん、相変わらずだなあ・・・・。

詩織と同年代の同窓生で、『鬼畜たっくん』『たらしのたっくん』を知らない人はいないだろう。

マンモス大学の巨大サークルをまとめていた人で、男女問わずに人気があって。

特に女子からの人気は絶大で、一度でいいからたっくんに抱かれたい、と公然と宣言してる女の子もいたくらいだ。

実際に彼を良く知る人たちは、案外真面目で律儀な人だと言っていたっけ、と詩織は彼の噂を思い返していた。

彼女は作らない主義だ、だの自分からは口説いたことはない、だのいろんな噂が飛び交ってたけど、どこまで本当

の事だったのか。

真由に何度かちょっかいを出してはなぎさを激怒させていたけれど、詩織は杉原が案外真剣に真由を想っているん

じゃないかな、と思っていた。

キャンパス内で視線を感じて振り向くと、杉原が真由を見つめていた事もあったし、真由が彼と別れた後、一人でいる

詩織に「真由ちゃん、元気になった?」とそっと問いかけてきたこともあった。

どこかつかみどころがない人だから、恋愛経験の少ない詩織に杉原の心を読む自信なんて、ないのだけれど・・・。

問いかけてきた杉原の瞳に滲んでいたのは、真由への心配と、恋心だった、と詩織は思うのだ。

 

どこか抜けている真由は、やっぱり杉原の正体には気がつかなかったようだ。

真由が到着する前にあったなぎさと杉原のひと悶着を思い出し、詩織は苦笑した。

なぎさにとっては詩織も真由も、頼りない妹みたいなものなのだろう。

なぎさみたいに生きられたらいいのに、と詩織は思う。

なぎさならきっと、彼女がいるのにどうして、と係長の手を跳ね除けただろう。

その前に、好きです、ときちんと伝えて、ちゃんと失恋できただろう。

私は意気地なしだ。

係長に好きになってほしいなんて、とても言えない。だって。

私が、私を嫌いだもの。

 

どこかぼんやりとしたまま、詩織は飲み会の終了を迎えた。

「たっくん」の話は面白くて、青山の受け答えも楽しくて、一瞬だけ今日の悲しい出来事を忘れさせてくれた。

帰ろうとした真由が、靴がないと青くなっているのを見て、詩織はまさか、と杉原の方を見た。

口の端を上げて微笑む彼の姿にやっぱり、と思ったが、詩織は口をつぐむことにした。

いつもガードが固い真由が杉原にメアドを教えていたし、杉原はなぎさが言う程ヒドイ人間ではない、と詩織は信じ

ていた。

少なくとも、妹の親友をもてあそんだり、悲しませたりするような人ではないと。

 

靴を探す真由を残して駅に着くと、青山が丁度改札を通るところだった。

目があった詩織は、さようならの意味をこめて軽く会釈した。

先に行くだろうと思ったのに、改札を抜けた場所に青山が立っていたのには少し怯んだが、そういえば最寄の駅が

同じだと飲み会で話していたのを思い出し、彼の一緒に帰りましょうという言葉に頷いた。

「・・・・・何か、気がかりな事でもあるんですか?」

電車の入り口の手すりに捕まっている詩織に、青山は気遣いを含んだ声で尋ねた。

そんなに疲れた顔をしているんだろうか、と恥ずかしくなった詩織は、いえ、と小さな声で答えた。

背の高い青山は、がっしりとした体格で大学時代にラグビーをしていた、と話していた。

良く日に焼けたその顔には、確かにラガーシャツが似合いそうだ、と詩織は思いながら言葉を紡いだ。

「杉原さんと・・・大学時代、親しかったんですか?」

言葉を選びながら訊いた詩織に、ああ、真由さんが心配なんですか、と青山が笑った。

大丈夫ですよ、と青山の屈託なく笑う白い歯が眩しい。

「杉原は、誤解されやすいですけど、男気があるやつです。

 なぎささんだって、本当の彼をよく分かってるはずです。

 二人の仲を反対してるのは・・・・いや、これは俺が言うべき事じゃないな。

 とにかく、俺が知る限り杉原が自分から口説こうとしてたのは、真由さんだけですよ。

 詳しくは知らないですけど、真由さんのこと、なぎささんと再会する前から知ってたみたいだし」

青山の意外な言葉に、詩織は眉を寄せた。

・・・え?それっていったい。

 

どういうことなんですか、と訊こうとした時、電車が二人の降りる駅へと到着した。

この電車が急行の最後なせいか、ホームにいる人影はまばらだ。

「ええと、詩織さん、どうやって家まで帰ります?

 タクシーなら一緒に並びますし、歩いて帰るなら家まで・・・・」

階段を上がりながら改札へ向かう青山の言葉に答えようとした詩織の前に、ここにいるはずのない人の姿が現れた。

彼は自分とは反対方向に住んでいるはずだ。こんな時間に、なぜここに。

青山と並んで歩く姿を見た彼が、足早にこちらへと近づいてくる。

詩織は状況を把握できないまま、とまどうように彼と青山の間で視線を彷徨わせた。

「沢田さん」

まるで青山の存在を無視するように詩織に話しかける彼に、青山は誰ですか、と訊いた。

「あの・・・・私の上司、で」

どうしてここにいるのかは詩織にも説明できない。

君こそ沢田さんとは?と問う彼に、青山はどう答えようか迷っているようだった。

「友達、ですよ。偶然下車駅が一緒なので、送ってきました。

 えーと、詩織さん、じゃあ俺、遠慮した方がいいのかな」

詩織が答える前に、彼が悪いけど、と暗に行けと命じた。

いつも穏やかな彼がこんな剣呑な雰囲気をまとっているところを、詩織は初めて見た。

今日の係長は、何から何まで、変だ。

 

遅いから送ってく、という係長の背中について詩織は歩き出した。

どうしてここに、とか、何か用ですか、とか訊きたいことはいっぱいあったけれど、どれもうまく言葉に出来なかった。

彼の背中は明らかに怒っていたし、その理由が詩織には一つも思いつかなかったからだ。

ここでいいです、と大通り沿いのコンビニ前で言った詩織に彼ははじめて振り向き、彼女の顔をじっと見つめた。

コンビニの前にある、虫よけの機械がばちばちと鳴っている。

黙ったまま見つめあう二人の脇を、手をつないだカップルが不思議そうに眺めながら、通り過ぎていく。

沈黙の重さに、とうとう詩織は耐えられなくなった。

「あの・・・どうして係長、怒ってらっしゃるんですか?」

係長の顔がさっと赤く歪んだのに、詩織は驚いた。

詩織の問いには答えず、ぐいと彼女の腕を掴むと、今来た道を駅に向かって戻っていく。

「か、係長?あの、私の家、そっちじゃ・・・!」

彼は一瞬足を止め、沢田さん自宅だろ、と不機嫌そうな声で答えた。

はい、と消えそうな声で答える詩織に、彼は真顔で言った。

今日は帰さないから、と。

 

どうしてこんなことに。

強引に連れてこられた駅裏のホテルの一室で、詩織は係長に組み敷かれていた。

部屋に入るなり、ベッドに押し倒され、むさぼるように口付けを奪われた。

どうして、ちゃんと彼女がいるのに、なぜ?

彼の熱い手が、彼女の服を乱暴にたくしあげ、すべらかな肌の上をもどかしげにさまよう。

性急に進められるその行為に、詩織の頭の中が冷えていく。

私、係長のこと、なんにも分かってなかった。

優しくて、誠実で、真面目で・・・・そんな人だと勝手に思ってた。

私の事、女性としては見てくれていなくても、きっと部下としてはそれなりに大事に思ってくれていると信じてたのに。

彼女にはなれなくても、せめて部下として役に立ちたかった。

いい部下としてそばにいたかった。

・・・・ただそれだけで、良かったのに。

詩織の目尻から、涙がとめどもなく溢れ、シーツを濡らしていく。

「・・・っく」

しゃくりあげる声に、彼の手が止まった。

胸元から目を上げた彼が、詩織の泣き顔に顔をこわばらせる。

「・・・・・・・・ごめん」

我に返った彼は、慌ててまくりあがった詩織の服を直し、彼女をぎゅっと抱きしめた。

「ごめん、急ぎすぎた・・・俺、我慢できなくて・・・」

耳元で聞こえる、愛しい人の声に詩織の哀しみがあふれる。

「どうして・・ですか?彼女がいるのに、どうしてこんなこと・・・・」

詩織の言葉に、彼がえっ、と驚きの声をあげた。

腕の中の詩織の顔を覗き込むように姿勢を変え、彼女?と彼は問い返した。

頷いた詩織は、以前、同期会で見かけたことをぽつりぽつりと話した。

ああ、と納得した様子の彼は、半年ほど前に別れたよ、と苦しそうな表情で告げた。

 

「長くつきあってた彼女だったから悩んだけど・・・・。

 日に日に、自分が彼女じゃない人に惹かれてるのをごまかせなくなった。

 彼女にそろそろ結婚したい、と言われた時、自分は同じ気持ちじゃないとはっきり分かったんだ。

 君が、好きだ。

 君が僕の部下になってからずっと・・・・君の事を、想ってた」

・・・・・・・嘘。

詩織は両手を自分の口元に当てて、言葉がもれるのをぐっと止めた。

「わ、私のせい・・・で?」

好きな人から想われていた、という喜びより先に、彼女の悲しみに胸が痛んだ。

あの優しそうな、可愛らしい人が私のせいで。

そう思うとたまらなかった。

自分では外に出していないつもりだったけれど、きっと係長を好きだと想う気持ちは彼に伝わって

しまっていたのだろう。

そのせいで、彼の気持ちが近くにいる自分に移ってしまったのだろうか。

長い間、彼女はきっと結婚するつもりで彼とつきあっていたのに・・・・。

彼女の年齢は30を超えているはずだ・・・・・・係長の同級生なのだから。

自分が彼女の立場だったら、と考えると心が凍えた。

彼女の心を読もうとするように、係長の整った顔が歪んだ。

「君は俺を、どう思ってるの?

 こんなところについてきたのは、俺を好きだから?

 それとも、『断れない沢田さん』が流されただけ?」

 

私も好きです、と伝えてしまいたかった。・・・・・・でも。

言葉にならないまま、涙があふれる。

自分の知らないところで、彼女を泣かせていた。

でも胸の奥に、彼に愛されていたと喜んでいる自分が居る。

いつから私はこんなに浅ましい人間になってしまったのだろう。

彼の低い声が、他に好きな男がいるの、と苦しげに問いかける。

詩織はそんな風にだけは誤解されたくなくて、小さく首を振る。

「私、ずっと係長に憧れてて・・・でも、彼女が居るって聞いて、あきらめなきゃって・・・」

その言葉を聞いた彼が、少し表情を和らげて彼女の言葉の続きを待つ。

詩織は、彼から顔を隠すように彼の胸へと顔をうずめた。

彼の気持ちを受け入れていいのだろうか。

私だけ、幸せになってもいいのだろうか。

係長の手が、優しく詩織の背中をさする。

「沢・・・・詩織」

柔らかい声が、詩織の耳元へと落ちる。

好きだ、という言葉と共に、熱いキスが詩織の身体中へと想いを刻み始めた。

首筋が、熱い。

彼の舌が自分の上を這っているのだと気がついて、詩織はぎゅっと強く目をつぶった。

一度元に戻された服が、彼の口付けと共に、また開かれてゆく。

先ほどの荒々しい行為とはまるで違う、優しい指とキスが、詩織の心を解いていく。

彼は枕元の灯りを低く落とすと、自分と彼女を隔てている布を一枚ずつ・・・詩織のスカートやストッキング

までもするりと脱がしてしまう。

詩織は羞恥と戦いながら、彼が自らの服を脱ぎ捨て、彼女のそばに戻ってくるのを待っていた。

 

胸元を隠すように両手を前で組む詩織の手を、彼の手がそっと外す。

彼の身体が彼女の上にかぶさり、ぴったりと重なった二つの身体は体温を分け合った。

「・・・君が他の男たちと話すたび、胸が焼けそうに苦しかった。

 笑顔を見るたびに、嬉しくて・・・でも自分だけのものじゃないことが、もどかしかった。

 君の視線を感じるたびに、もしかして君も、と思えるのに、会おうと誘えば断るし・・・」

頬と頬が触れ合ったままの彼の告白だから、詩織には彼の表情が見えなかった。

だから、その切なそうな顔を見ていれば出てこない答えが彼女の口をついて出た。

「嘘です、そんな・・・・私、男の人なんて桜井くんくらいしか話す人・・・・」

今一番口にしてはいけない名前が、係長の治まっていた嫉妬心に火をつけた。

彼は身体を少し起こして肘をつくと、空いた指先で彼女の髪を弄びながら、鋭い視線で彼女を射抜く。

「・・・・・桜井といい、さっきの男といい・・。

 君はガードが緩すぎるよ。分かってるの?

 営業の男たちがなんで用もないのにうちの課の島の周りをうろちょろしてるのか。

 社内の男たちがメールで送ればいい書類を、どうしてわざわざ持ってくるのか」

きょとん、とする詩織に、係長はため息を落とす。

月曜は、覚悟しといて。

詩織には意味の分からない言葉で、会話は打ち切られたようだった。

代わりに、彼の指が、舌が情熱を彼女に伝え始める。

自分の身体に与えられる刺激の一つ一つを、詩織は信じられない思いで見下ろしていた。

 

彼のさらさらとした黒髪の隙間から、伏せた目が見える。

少し薄めの唇から、ちらりと見える舌先が、自分の胸の先端を弾く。

それが彼の口の中に含まれた途端、詩織は自分の身体の中に電流が走ったように感じた。

「・・・・・あっ」

思わず漏れてしまった自分の声が恥ずかしくて、詩織は自分の手の甲をぎゅっと唇に当てた。

男の人の手にしては繊細な指が、彼女の両方の乳房を優しく、ゆっくりと揉み解してゆく。

その度に自分の身体の奥がじんと痺れる気がして、詩織は無意識にぎゅっと太ももに力を入れた。

彼はそんな彼女の両方のひざをたやすく開くと、自分の身体をそこへと割り込ませた。

「え・・・あ、やだ・・・!」

シャワーを浴びていないその場所に彼が頭を近づけようとしたので、彼女は慌てて身体をよじって逃げた。

「・・・・なんで?」

いたずらっ子のように瞳を輝かせる係長に、詩織は真っ赤な顔で首を振りながら、ぴたりと膝を閉じてしまう。

「恥ずかしい・・です、シャワーも浴びてないし、私そんなこと・・・・」

されたことないの?と楽しそうに言葉を引き取った彼に詩織は、係長!と声を荒げた。

彼は係長はやめてよ、と苦笑いしながら彼女の脚の間に身体を戻し、恥ずかしそうな顔で固まっている詩織

の唇に軽くキスしたあと、微笑んだ。

「だいたいさ、君は僕の下の名前、知ってるの?」

上司の名前くらい知ってます、とすねる詩織に彼は、ふっと微笑んだあと、じゃあ呼んで、とねだるような甘い

声で囁く。

「誠司・・・・さん」

よくできました、という答えと共に、彼の愛撫が再び始まった。

 

それだけはいや、と腰を浮かす彼女を逃がさないようにがっちりと捕まえたまま、彼の舌がその割れ目を丁寧

に舐め上げる。

胸への愛撫だけで十分に潤っていただろう、その場所から淫らな水音がして詩織はいっそのこと気を失って

しまいたいほど恥ずかしかった。

柔らかく全体を、舌先を固くして芽を弾くように、そして中へと何度も出し入れされるうちに、詩織の羞恥心は

快感にねじ伏せられていく。

仕事中、綺麗だと思わず見とれてしまっていた、係長の長い指。

その指が今、自分の中にあるのだ。

「あ・・・・んっ・・・!」

自分が昇り詰めようとしているのが分かる。

そんな彼女の表情をちらりと伺った彼が、手の動きを早める。

長い指が、彼女の内側で狙った場所を何度も突き上げる。

彼女さえ知らなかった、彼女が一番弱い場所を。

「いやあっ!」

はしたないほどの声と共に、彼女は絶頂を迎えた。

身体を起こし、その表情を満足そうに見下ろした彼が、ぺろりと自分の上唇を舐めるのを、詩織はぼんやりと

見上げた。

準備を整えた彼が、ゆっくりと彼女の中へと入ってきた。

彼女の奥へと納まったまま、もう一度ぴったりと身体を重ねる。

お互いの背中に両腕を回したまま、二人は唇を重ねた。

角度を変え、お互いの舌を探り、絡み合う。

「詩織・・・・・」

唇を離した彼が、詩織の瞳を覗き込む。

もう何もいらない、と詩織は思った。 

彼の腕の中に、自分がいるなんて。

彼に、愛されていたなんて。

 

浅く、深く。早く、ゆっくりと。

回すように、そして突くように。

何度も何度も高みに昇らされては、焦らすように止められて。

しがみつく彼女の耳元に、「愛してる」、と「詩織」、というささやきを捧げながら。

彼は彼女の身体に自分を刻み込むように、きつく抱きしめたまま放った。

震えるような快感と、彼女を手に入れた喜びにゆっくりと浸りながら。

 

翌朝、目を覚ました詩織は、目の前にいる上司の寝顔に驚いて息が止まりそうになった。

ゆ、夢じゃなかったんだ・・・・。

身体に残るかすかな疲労感も、胸元に花のように散っている彼の所有の印も、昨夜の出来事を恥ずかしさと

共に思い出させる。

詩織はベッドの下に落ちていた自分の下着を拾うと、彼を起こさないようにシーツの中でそっと身につけた。

自分の携帯にメール着信を知らせる音を聞いた彼女は、無断外泊してしまったことに気がついて、青くなった。

いくら26とはいえ未婚であり、父親も母親も男女関係に寛容とは間違ってもいえない堅物だ。

慌てて鞄を開け、メールを確認しようとする詩織を、目覚めた誠司が後ろから抱きしめる。

「あ、お、おはようございま・・・す」

少しだけ振り向きながらも恥ずかしくて視線を合わせられない詩織の顔を、誠司は無理に上げ、唇を奪う。

 

「メール、誰から?」

激しいキスに息を乱された詩織は、多分母だと思います、と言いながら何件も届いているメールを順番に

開いていく。

「・・・・・あ、なぎさ・・・。そういえば、真由、ちゃんと帰れたのかな・・・・」

独り言を言いながらメールを打ち返す詩織の携帯を見下ろしていた誠司が、画面を見ているのに気が

ついたが、別に隠す内容でもない。

だが誠司は、詩織、と名を呼んで送信し終えた彼女の意識を自分に向けさせた。

なんですか、と視線で応える詩織に、誠司は不機嫌さを隠さない声で問いただす。

「昨日はもしかしなくても合コン・・・だった訳だよな、その文面から察するに」

ええ、結構楽しかったです、私ともう一人のコがずっとフリーで、このメールをくれたなぎさはずっと心配して

くれてて・・・・と笑いながら話す詩織の頬を、誠司はぎゅっとつねって黙らせる。

「昨日のが生涯最後の合コンだ。楽しくて良かったな」

・・・・ええと。

きゃあ、と叫ぶ詩織を無視して、誠司は彼女を押し倒し、跡を残しかねないキスを所かまわず落とし始める。

「あの、私、親と桜井くんにメールしないと・・・!」

またもや禁断のフレーズを口にしてしまった詩織がそのあとどんな目にあったのかはご想像の通り。

月曜日、詩織を狙う男性社員全員が、がっくりと肩を落とすことになったのも、ね。

 

終わり

 

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