- 策略 -

 

はあ。いったいなんで私はせっかくの土曜日にこんなところにいるのだろう。

いや、こんなところってのは失礼か。

さすがうちの社長のお宅だわって感じの立派なお屋敷だし、置いてある家具はもちろんのこと、紅茶

の入ってるカップだって一客三万円くらいは軽くしそうなお品だ。

向かいのソファに座っている社長夫妻は、平も平、当たり前だけれど顔も名前もご存じない一女子社

員に、にこにこと笑いかけてくださっている。

ははは…人の良さそうなお二人を騙している、と思うとそう丈夫でもない、胃が痛む。

うう、ごめんなさいー私だってこんなことに加担するのは嫌だったんですよ?

悪いのは…。

横目でちらりと盗み見た相手…社長夫妻の息子は、良心の呵責など、かけらも感じていないような

顔で澄ましている。

どうして断れなかったんだろう。

ああ、押しに弱い自分の性格が憎い。

 

事の始まりは先週の金曜日、だった。

課の皆がデートだ飲みだと次々と上がっていく背中を見送りながら、私は目の前のノートパソコンと睨

めっこをしていた。

金曜日の終業間際に飛び込んできた仕事に、当たり前だけれど約束のある皆様は一様に眉をしかめ

たわけで。

「あー、うん、無理を言ってるのは分かってるんだけど、企画課も急ぎみたいなんだよね…。

 僕はこれから部長と一緒に接待に行かなきゃいけないし…」

私以上に頼まれ事に弱い、係長の視線は明らかに私へと注がれていた。

いつもは同病相哀れむ、って感じでどちらかと言えば気が合う上司なんだけど、そんな彼にとって一番

頼みやすいのも私ってことなんだよね。ふう。

係長には、いろいろ恩もあるし…仕方ないか。

私は楽しみにしていた九時からのドラマを諦めて、人身御供になることを決めた。

この気まずい雰囲気に耐えられないから、自分がいつも貧乏くじを引く羽目になるとは分かってるんだ

けど、さ。

 

「…じゃあ、私がやりますね。以前のファイル、私のPCにもありますし…」

私の一言でその場にほっとした雰囲気が漂う。

近づいて来た係長が、ごめんね、と手を合わせたあと、何か言いたそうな表情を浮かべて口をつぐむ。

はは、分かってますって。中間管理職は大変だって言いますもんね。

ごめんねー、次は私がやるから、とか、今度お茶奢るねーとか、皆に気を使われながら引き受けた

仕事はなんとか10時前には仕上げて企画課へ送ることが出来そうだった。

9時のドラマは見逃したけど、深夜にやってるアメリカのドラマはなんとか見れそうだ。

「…何かありましたら、またご連絡ください、っと…ええと、担当者の名前はっと…」

送信先の名前を見て、私は思わず、手が止まった。

うわ、急いでたから担当者が誰かなんて気にしないで仕事してたけど、我が社の御曹司様じゃないで

すかー。

彼が修行先の企業からお父様の会社に戻ってきてから1年、うちの課の他の社員はみんな彼と仕事

をしたことがあるのだけれど、私にとってはこれが初めて一緒にするお仕事。

もちろん誰が担当者だって手を抜いたりするワケじゃないけど、悪い第一印象は持たれたくない。

念のためにもう一度表へと目を走らせ、メールの文言に失礼な点がないかを素早く見直す。

うん、大丈夫。私は安心しながら送信ボタンを押して、任務完了となったのだった。

 

社長の息子、ってだけでも目立つ存在の御曹司様はその麗しい見た目でも全女子社員の注目の的。

その上仕事も出来るなんて神様は不公平だーとは思うけれど、まあ我が社は将来的にも安定だって

ことだよね。

さてっと、とパソコンを落として帰ろうかと思った私の画面に、メールが届いたという知らせが浮かぶ。

え、そんな速攻で見つかるような間違いが!?と青くなりながらメールを開くと、送信者は案の定、

御曹司様だった。

「遅くまでお疲れ様です。夕飯がまだだったらご一緒しませんか」

簡単な挨拶のあと、そう綴られたメールは私以外の女子社員だったら大喜びするモノだったのだろう。

…と言うか。

その時に「喜んでご一緒します」と承諾していれば、今私はここに座って自分の会社の社長相手に嘘を

ついて冷や汗をかいたりせずに済んでいたのだ。

…息子さんの恋人です、なんて大嘘を。

 

その日、お誘いを丁重にお断りして帰宅した私は、コンビニで買った袋めんにもやしとウインナーを入れ

て質素な夕食を終えた。シャワーも浴びたし、あとはドラマが始まるのを待つだけ。

そんな状況だったから、格好はいつも通りのくたびれたTシャツと短パンで、髪はひっつめてて、もちろん

すっぴん。

そんな深夜11時半にインターホンが鳴っても、普通一人暮らしの女は出ないよね、仕方ないよね?

でもあまりにもしつこく鳴らされたモノだから、スコープから相手を覗いたんだけど死角に立っているの

かよく見えなくて…チェーンをかけたまま薄くドアを開けたんだけど。

「あの、どちらさまですか?」

怖々訊いた私の目の前にいたのが例の御曹司で。

もちろん私としては速やかにお帰りいただきたかったんだけど、さっきの仕事の件でちょっとねと言わ

れてしまっては、相手も相手だし、むげに断れるはずもなく。

引っ越して以来、母親と弟以外入れたことがない部屋へとお通しして、明日の楽しみにと取っておいた

午後の紅茶ミルクティー味をお出しするはめになったのだった。

 

「ここ社員寮だっけ?いい部屋だね。会社からは随分遠いけど」

ってそんなにじろじろ女の部屋を見ないで下さいよっ!と言える性格なら金曜の夜に残業してない。

うん、でもホント、広くていい部屋なんだよね。

今時会社借り上げの部屋に住めるなんてありがたいお話で、駅が遠いこととか、痴漢多発地帯なこと

とかスーパーが遠いなんてそんな贅沢な愚痴は言っちゃいけないんだ…言いたいけど。

で。

仕事の話をしにきたと言ったはずの、きらきらしい御曹司様はのらりくらりと話をかわし、いったいそん

なことを訊いてどうするんですかと思うような事…休日は何をしているかとか…ばかりを訊いてきた。

いや、だからなんで金曜深夜に自分の部屋でそんな話をしなくちゃいけないんでしょう。

私は、そわそわと時計を見ながら勇気を出して言葉を発する。

もうすぐドラマが始まっちゃう。今週は、いろんな謎が解けるはずの回なのに!

うん、やっぱり今すぐ帰ってもらわなきゃ。

このまま居座られて彼の終電が無くなったりしたら困るし!

「あ、の。ええと、あの書類に間違いがあったんでしたら、明日の朝出社しますので。

 今は会社に行っても多分、もう締まってると思いますし、今日のところはこれで、」

頼むからもう帰ってーというオーラを出した私の顔を見た彼が、くくっと笑った。

会社でもすれ違ったことくらいしかない彼の笑顔を見るのは初めてで、うん、まあそれは私も人並みに

どきっとしたんだけどね?

「…やっぱり面白いなあ、君。

 ね、君さ、バイトしない?オッケーしてくれたら、会社のすぐ近くに住めるようにしてあげるよ?」

…へ?

バイトって、でも私は正社員なワケで、そういうのってばれたらまずいんじゃないだろうか、と考えた私

の心を読んだように、その辺は心配ないよ、個人的な頼みだし、と彼は答えた訳で。

うん。もう察しのいい方は分かったよね。

そのバイトが彼の恋人役を引き受けること。

で、年がら年中見合いを持ってくるご両親に会うこと。

期限はその必要がなくなるまでって…ええ、ナニソレ。

 

私は考えるまでもなく、もちろんこれまた丁重にお断りした。

だって相手が普通の人ならともかく、彼の親御さんイコールうちの社長と専務だ。

これからも会社で顔を合わす相手に嘘をつくなんて、胃が弱い私には重過ぎる試練。

だいたい。

そんな役、ただで引き受けてくれる人、いくらでもいるんじゃないですかーと言った私に、そういう人

相手だと何かと面倒でしょ、と冷たく笑った彼。

…そっか、食事をお断りしたから、彼に興味なしの私ならと見込まれたわけか。

そうささっと理解した私は、にこりと作り笑いを顔に貼り付けた。

要するに、他の女子社員と同じだと思ってもらえればいいんだよね?

「あ、あはは、光栄ですけどー、でも私だって実は密かに中畑さんに憧れてますよ?」

そう言った私を鼻で笑った彼が、へえ、と器用に片方の眉だけを上げて見せた。

「それは光栄だなあ。じゃあ、もちろん僕の下の名前は知ってるよね?」

…うっ、痛いトコ突かれた!

前々から、御曹司殿の名前はなんて読むのかなーとは思ってたんだ。

疑問に思ったことはすぐ調べなさいっていつもお母さんに言われてたのにィ!

 

「尚更の尚に、拝啓の啓ですよねー」

嫌な汗をかきながら言った私に、読み方は?と訊く彼の笑顔はますます意地悪度を上げている。

「なおひろ…?」

ありそうな名前をとりあえず言ってみた私に、彼はますます楽しそうな笑みを浮かべる。

「ひさひろ、だよ。残念だったねーハイ、採用」

で、冒頭の気まずいご対面とあいなったわけです、ハイ。

 

「もう尚啓ったらこぉんな可愛い彼女がいるんなら、さっさと紹介してくれれば良かったのにィ。

 瞳ちゃん、このコったらね、せっかくハンサムに産んであげたのに仕事が恋人っていうつまんない

 生活送っててね、ほら、親としたらやっぱり心配じゃない?

 私のお友達なんかみぃんなもう孫抱かせてもらってるのに、私だけ話に入れなくてもう、つまんな

 いったらなくてね」

って奥様、明らかに「親として心配」より「私だけ孫がいなくてつまんない」に重点が置かれてました

よね、今。

っていうか彼女(ま、偽者だけど)が出来たからってすぐ結婚するわけでもあるまいし、ましてや孫

なんて…。

迂闊に相槌を打つこともできずに固まる私に、社長であるお父様が畳み掛けるようにおっしゃる。

「ああ、瞳さんのお名前を知ってから直属の・・・なんだ、山田係長にどんなコか訊いてみたら、

 真面目な優しい女性だと僕が保証します、なんて言われてね」

って!係長にまでその嘘伝わってるのー!?

ちょっと中畑さん、こんな大事になるなんて聞いてませんよ、ああもう、お金なんてどうでもいいんで

ちゃんと否定してくださいよ、と言おうとして彼の方へと向き直ると。

「父さんと母さんが瞳の事を気に入ってくれて良かったよ。

 じゃあ、僕はこれから引越しの手伝いもあるからそろそろ帰るよ」

にっこりと美しく微笑んだ彼が、ご両親へとそういい置いて立ち上がったから、私も仕方なく立ち上

がることに。

う…今否定するのは、どうも無理っぽい…よね。

とりあえず彼の目的はお母さんから山のように持ち込まれる見合い話を止めることなんだから…。

う、うん。そうだ。

ほとぼりが冷めたら別れたってことにしてもらえばいいじゃん。

うん、でも社内でつきあってるなんて噂が立ったらそれはたまらないから、係長に口止めして…。

 

彼の助手席であちこち飛ぶ考えをまとめていた私は、あれ、とおかしな事に気がつく。

ええと、ここって外苑西通りと青山通りの交差点だよね?

ってことは、このままじゃ広尾の方に行っちゃわない?

「あの。送ってくださるんです…よね?これって、私の家と逆方向な気がするんですけど…」

運転なんて出来ない私だけど、昔から方向感覚は悪くないほうなのだ。

うん。明らかに、ウチに向かってない。

「大丈夫。そっちはちゃんと人をやったから」

……は?

あのー、おっしゃってることがよく分からないんですけど。

「あの、人って…どなたのことですか?」

そんな疑問を口にした私に、引越し業者だけど?と何を当たり前のことをと言わんばかりの口調の彼。

えーっと、引越しって、誰の?

「君以外の誰がいるの。会社の近くに引越しさせてあげるって言っただろ?」

忘れたの?と眉をひそめた彼の言葉に、私は例の金曜日を思い出す。

あー、そういえばそんな事を言ってたような…。

え、でも、それって部屋代になるくらいのバイト代を出してくれるってことじゃないんですか?

それに。

「ひ、引越しって今日ですか?え、私何にも準備してないし、引越し先だって知らないのに…」

そう必死に訴える私に、「善は急げと言うしね?」とか「おまかせパックだから大丈夫だよ」とか「間違い

なく気に入る部屋だから安心して」とかって…安心出来ませんってば!

 

ここだよ、と言われて(なぜか肩を抱かれながら)案内された部屋には、お言葉通りちゃんと私の荷物

が届いていた。

…仕事、早!

っていうかそれより気になるのは…。

「あのぅ…ここ、もうどなたかが住んでますよね?

 誰か他の社員とルームシェアすることになるんですか?」

だったらこんな超高級マンションじゃなくても前の方が良かったなあ、私一人暮らし気に入ってたのにー

なんて暢気なことを考えてられたのは、そこまでだった。

「僕以外の、誰と君住むつもりなの?」

……ぱーどん?

さっさと靴を脱いで部屋に上がった彼が、ここがバスルームだよ、だの、洗濯機の使い方はこうだの、

私のとまどいなんて置いてきぼりで機関銃のように説明していく。

いや、だから。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ!

 恋人のフリって話でしたよね?ご両親に会えばいいんでしたよね?

 一緒に暮らすなんて聞いてないです、っていうか、そんな必要がどこに…っ」

あたふたとそうわめく私を見下ろしている彼が、ふっと艶やかな微笑みを浮かべる。

…う。

そ、その笑顔は反則だと思う。

多分、自分で知ってますよね?その笑顔の威力。

私みたいな地味ーな人間は、近くで見るだけで息が止まりそうになるくらい、どきどきしちゃうことも。

じりっと後ずさる私は壁際に追いつめられて…顔の両側に彼が両手をつく。

壁と彼の間に閉じ込められた私は、まるで金魚のように口を動かすだけで、何も言えなくて。

「あの好き嫌いの激しい親父とお袋が一発で気に入る女をこれからもう一回見つけるのはメンドク

 サイんだよね。

 こないだからいろんな社員から君とつきあってるのか訊かれて肯定したから、君、少なくともうちの

 社員とはもう恋愛できそうにもないし?

 いっそのこと、このまま結婚しちゃえばお互い楽なんじゃない?」

……は?

いや、いやいやいや。それはナイ。それはないでしょう。

メンドクサイからって大事な事を勢いで決めるのはよくないよ!

ふるふると顔を横に振る私を、彼は「僕じゃ結婚相手には不足?」と傷ついたような目で私を見下

ろす。

ナンデスカ、その捨てられた仔犬みたいな瞳…!

どう考えても私の意見が世間の常識のはずなのに、まるで私が酷いコト言ってるみたいじゃん!

でも。いくら気が弱くったって言うコトを聞けることと聞けないことがあるよ、うん!

「いえ、不足だとかそういう事じゃなくって!」

はっし、と彼を見上げてなぜゆえに彼と結婚できないかを論理的に述べようとしたというのに。

じゃあいいんだね、とけろりと言った彼は、そのまま私の唇に自分の唇を重ねて…。

なんだかよく分からないうちに、私は御曹司の婚約者になってしまったのだった。

 

…ねえ。

私の、何がいけなかったのかな?

皆が嫌がる残業を引き受けたこと?彼からのお誘いを断ったこと?

それとも夜中にドアを開けちゃったこと?ううん、やっぱり一番の落ち度はバイトを断りきれなかったこと?

いくら考えても分からない。いったい、なぜ、こんなことに。

あれよあれよと言う間に、結納だの披露宴だのの日程が決まっていくのを呆然と眺めていた私に、ある日

残業中の山田係長がぽつりとつぶやいた。

「とうとう捕まっちゃったねえ」

……とうとう?

不審な顔をした私に係長は、いいんだよ、君は知らなくて、と微笑んだ。

「あの、それって、」

「山田係長」

感情を押し殺したような美声に振り向くと、私の婚約者(未だに実感ないけど)が殺気を漂わせながら

立っていた。

「ああ、すいません、口が滑りました」

そう言った係長の表情が面白がっているように見えたのは、気のせい、かな。

「そろそろ瞳を連れて帰ってもいいですか?これから婚約指輪を見に行く予定なんで」

失礼、と答えも聞かずに私の肩を抱いた彼が、ずんずんとオフィスを出て、エレベーターホールへと向か

って行く。

……?

エレベーターの中に入り、一階のボタンを押した彼の横顔を私はじっと見つめる。

視線に気がついたのか、咳払いした彼が、何か僕の顔についてる?と訊いた。

私はいいえ、と答えたあと…。

「なんだか顔が赤いから、どうしたのかなって思っただけです。

 具合、悪いんですか?」

一瞬の沈黙のあと、苦虫を噛み潰したような表情の彼の耳が赤く染まる。

これだから君は、と呆れたように言い捨てた彼は、急にがばりと私を腕の中へと抱きこんだ。

ちょ、ちょっ!これ、会社のエレベーターですよ!?

案の定、すぐに開いた扉の向こうから(私は幸い背を向けていたけど)きゃあっという黄色い歓声が

上がる。

うぎゃー、私の顔は見えなくても相手が有名人なわけで、ああ、もう私明日からどんな顔で会社に

行けば!

 

ええと、そういう訳で。

自分の会社の跡継ぎの名前くらいは読めるようにしておきましょう、って話です。

え、違う?

うーん、まあ、こんななりゆきで婚約者になったけど、それなりに大事にしてもらえてるし、まあこんな

のもありなのかなって思うんだけど…。

ダメかなあ。やっぱりこんないい加減な結婚じゃ、すぐダメになっちゃうかなあ。

皆さん、どう思います?

 

Fin.

TOPへ

inserted by FC2 system