母の日に

 

犬の散歩がてら街を歩いていた私の目に飛び込んできたのは、花屋の窓ガラスに貼られた、一枚

のポスターだった。

ありがとうの気持ちをこめて、そんなありふれた言葉の下に、これまた定番通りのカーネーションの

花束の写真が添えられている。

(そっか…今週の日曜日は母の日、だ)

こんにちは、と愛想よく挨拶してくれたなじみの店員さんに一応は笑顔を返したものの、たぶん強張

っていた表情を隠すために足早に店先から逃げ出した。

浮かんだのは、やつあたりに近い感情、だった。

みんなに母親がいるわけじゃないのに…母親を亡くしたばかりの人間だってたくさんいるのに、その

悲しみをえぐってまで、商売がしたいの?

自分だって去年母を亡くすまでは何も考えずにカーネーションを買っていたくせに、そんな口汚い思い

を胸にいっぱい溜め込みながら、家路を急いだ。

常よりも強く引っ張られた愛犬が、どうしたの、という瞳で私を見上げる。

「ごめんね…ごめんね」

しゃがんで、柔らかいその背中を何度も撫でた。自分にとっての…そして母にとっての最後になって

しまった、去年の母の日を思い出しながら。

 

夏まではもたないでしょう、そう医者から告げられていた母はその日、ホスピスと呼ばれる病室で

静かに休んでいた。

幼子を二人抱えた私は、病院と家の往復に忙殺されていたのだけれど、その日ばかりは気心の

しれた友達に子供を預けて、母の日のプレゼントを探しにデパートに買い物に行った。

物心ついてからだから、もう数十回は母へのプレゼントを買ってきた。誕生日、クリスマス、そして

母の日。子供達や父のものばかり買って、自分の物はなかなか買えない母に、ここぞとばかりプレ

ゼントをするのは、私の楽しみでもあったのだ。

自分ではけして選ばないであろう、華やかな色の口紅、ブランドなんてと言っていたくせに贈ったら

誇らしげに同窓会に持っていったバッグ、肌触りのいいシルクのスカーフ。

またこんな散財して、なんて眉をひそめながらも、ほころんでいた口元。嬉しそうにリボンを解く手つ

きさえ、弾んだ母の心をよくあらわしていて。

けれどその時の私には、母に何を贈っていいのかが分からなかった。

だって。

食いしん坊な母に高級なチョコを贈ったこともあったけれど、今の母の身体はもう、そんなものを受

け付けてはくれない。

パジャマ以外の服を母が着ることはもうないだろうし、靴やバッグだって同じだ。化粧さえする気力が

ないほど母の体力は落ちているし、花など病室が埋まりそうなほど見舞い客から渡されている。

たくさんの品物で溢れるデパートのフロアで、私は呆然と立ちすくんだ。

何を贈ったらいいんだろう…私は何も選べないまま、友達に預けた子供達のもとへと戻った。

結局何も渡せないままその日を終えた私に、母はいつもありがとうね、と優しい微笑みだけを返して

くれた。兄と妹はいつも通りに花と身につけるものを贈ったと、後で聞いた。

どうして何もあげなかったの、最後の母の日だって分かってたでしょうと妹に叱られたけれど、何も

言い返せなかった。

だって、と言いかけて、何も言えなかった。

うまく説明できる気がしなかったし、したいとも思えなかった。

母は子供の頃から口下手の私の気持ちをいつも分かってくれていた。…だから。

それだけでいい、と思った。

 

リードを愛犬から外し、ブラッシングを終えた頃には、子供達を幼稚園に迎えにいかなければいけない

時間になっていた。

夕飯はなんにしようかな、そんな事を考えながら子供達が出てくるのを園庭で待っていると、さっきまで

の悲しみが嘘のように感じられて…そんな自分を薄情だとも、現実的だとも、思った。

未婚の妹は、母のお通夜の時に子供と折り紙を折っていた私を、冷たいねお姉ちゃんって、と赤い目

でなじった。親戚達が集まるなか、子供達をほっておいて泣いているわけにはいかないでしょう、と説明

する私に、そんなことに頭が回ること自体すごいねと、捨て台詞を吐いて母の枕元へと戻った妹を、とて

もうらやましく思ったものだ。

母が亡くなって悲しいのは同じなのに、子供達のごはんやお風呂を世話しなければならず、読経に怯え

る娘達を喪服姿で抱き上げなければいけなかった私の気持ちを、妹もいつか分かってくれるだろうか。

 

「ママあのね、帰ったら、いいもの、あげるからね」

後ろ手に何か隠した下の娘が、言いたくてうずうずした口元で、ねえー?とお姉ちゃんに同意を求める。

「えへへー、あのねー、すごおく、いいものだからね?はやく見たい?」

おそろいの園帽のリボンを揺らしながら、右手に長女が、左手には次女が手をつなぐ。

「何かなあー、楽しみだなあ、今ちょっとだけ、見せて?」

だめーーと揃って言ったあと、くすくす笑う娘達を連れて、家に向かった。玄関を開けた途端、おかえりと

ちぎれんばかりに尻尾を振る愛犬に、娘達が我先にと小さな手を伸ばして抱っこする。

放り出された鞄の脇に落ちたカードを拾おうとした私を見た二人は、忘れてた、とばかりにそれを私の

手から奪い返す。

ママ、こっち来て、と手をひかれて、リビングのソファへと座らされた。

こしょこしょと耳うちして何か相談したあと並んだ二人は、せえの、と声を合わせて…。

 

「ママ、いつも、ありがとう」

差し出された正方形の二枚のカードを丁寧に受け取って、ゆっくりとそれを開いた。

『ままだいすき』

…クレヨンで書かれた下の娘のカードには、折り紙で折られたチューリップが張られていて。

『いつもおいしいごはんをつくってくれてありがとう』

…色鉛筆で書かれた文字の下には、切り絵のカーネーションが。

そしてどちらにも、私らしき女の人が描かれていた。いつもジーンズばかり履いているのに、絵の中の

私はフリルがいっぱいのスカートを履いていて…。

「あり…がと、ママ、すごく、嬉しい」

ぎゅっと二人を抱き寄せて、娘達の、子供らしいおひさまの匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。

 

…お母さん。

お母さん、今、分かったよ。

この子達を育てて、やっと、分かったよ。

お母さんが今まで私のことをどれだけ大切に育ててくれたのか、愛してくれていたのか。

出来のいいお兄ちゃんと、美人の妹に挟まれた私がひねくれないように、ことさら気にかけて、それが

どんなに小さなつまらないことでも、誉めてくれた、母。

この子は我慢強い子で、不満は言えない子なんです、どうか大事にしてやってくださいと、結婚式の日、

夫にそう願ってくれたという、母。

母はこの世から去ってしまったけれど…私の心の中には、いつもいる。

だから。

母が教えてくれたことを、母が与えてくれた愛を、私は娘達に伝えていけばいいんだ。

あなた達のおばあちゃんはこんなに素晴らしいひとだったんだよと、そう教えてあげれば、愛はつなが

っていくのだ。

 

お母さん。

天国で見ていてくれてますか?私、いいお母さんになれてるかな?

ママー、おやつまだー、と急かす娘たちに見つからないように、そっと涙を拭う。

お母さんの写真の飾ってある棚に、二人のカードを開いて並べた。

二人の作ってくれた花は、私にとってはお花やさんにあったどの花よりも、きれいだ。

写真の中のお母さんの笑顔に、鏡の中の自分が少しずつ似てきているのが嬉しくて…すこし、寂しい

とも、思う。

お母さんがおばあちゃんになった姿も見たかったな、とやっぱり思ってしまうから。

いつかこの母の姿を、私は追い越してしまうのだろう。

そっと母の写真の上に指を置いて、お母さん、と呼んでみる。

なあに、と優しい母の返事が聞こえた気がした。

 

母の日に…天国にいるお母さんへ。

お母さん、ありがとう。

お母さんのこと、ずっとずっと、大好きだよ。

 

終わり

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