- 凍える吐息を温めて -

 

世の中は、起きる可能性が高いことから、起きる。

三十年真面目に生きてきたつもりだけれど、今日改めてしみじみそう思い知ったよ、うん。

数量とサイズを確認し終わった商品をダンボールに戻しながら、私は自分にそう言い聞かせてひとり、苦笑する。

起きる可能性が高いことから起こるから---だから胸が大きな子は痴漢にあいやすいし(ちなみに私はAに限りなく近い

Bなので幸い未遭遇だ)、友達の中で一番可愛くて気立てがいい梨絵が、セレブな弁護士(しかもイケメンとか!)に見

初められてお嫁に行くわけだ。

うん。だから。

まあ分かってたことなんだから、うん。

泣く必要なんて、落ち込む理由なんか、ない。初めっから、分かりきってたこと、なんだから、さ。

そんな風に自分を慰めていた私の物思いを破るように、がちゃりと倉庫の扉が開く音がした。

「筒井さんいますかー?本社から電話来てますけどー」

「あ、はーい。事務所で取りまーす」

自分の名前を呼ぶ、パートさんの声に大き目の声で答えて、よいしょ、と膝に手をかけて立ち上がる。冷たい倉庫の床

に長時間しゃがみこんでいたせいで固まった身体をうーん、と伸ばして、心地いい痛みに目を閉じる。うう、なんでわざ

わざこんな寒い時期に棚卸しなんてするんだか。まあ、今日の私にとっては願ってもない業務だったんだけど、ね。

 

本社から電話、かあ。まあ、同じ部署の新人君が一人じゃ捌けない事があって、ってとこかな。

まったく、たった半日の留守で電話してくるようじゃあ、大沢くんもまだまだだなあ、と心の中でダメだししつつ、点滅して

いる外線のボタンを押した。案の定、だった電話の相手に相談事の解決法とついでに二、三用事を言いつけて、容赦

なく電話を切る。何時に帰って来てくれるんすか、なんて情けない声を上げる彼に今日は戻らないよー、とあえて軽い声

で答えて。いつまでも私を頼ってないで、少しは独り立ちしようとしてくれないとおねーさんは困ってしまうのだよ。

入社してもう9ヶ月も経つというのにいつまでもひよこみたいに私を追う彼は、社内で『残念なイケメン』『筒井さんの下

僕』なんて呼ばれていて、直の先輩としていたたまれないこと、この上ないのだ。立派な大学を出て、新入社員用の研修

では周りから一目置かれた期待の新人、なんて言われてたのに蓋を開けてみれば。まあ、まだ若い子だし、素直な男

の子だからまだまだ、伸びしろはあると思う…思いたい、けど。

 

ちょっと一休みしない?もらい物のお饅頭があるのよ、と誘ってくれたパートさんにお礼を言って、来客用の器に淹

れてもらったお茶をすする。かじかんだ手がじんわりと温まるにつれて、少しずつ強張っていた身体にも感覚が戻って

くる。『えええ、棚下ろしの助っ人なんて俺が行きますよ!』と申し出てくれた大沢くんを制して私が出張って来たのは、

今日は、せめて今日だけは、何も考えずにすむ業務をしていたかったからだ。空調の入っていない倉庫でただ、黙々

と商品の数を数え、PC上の在庫と相違がないか確認するのは普段なら気重な作業だけれど、今日だけは有難い。

一人っきりで、誰にも会わずにいられる、というだけでも。

「…あ、忘れてた」

かさり、という感触で思い出したのは、エプロンのポケットに入っていた使い捨てカイロだ。ぴりり、と袋を開けて、紙を

はがしてニットをめくり、腰の辺りに貼り付ける。倉庫に来る前、私がメールチェックしている隙に大沢君が近くのコン

ビニで仕入れてきてくれた物だ。最近の男の子は本当に細やかで気がきく。多分、がさつな私なんかより、ずっと。

 

ブブブ、と震えた携帯を上着のポケットから取り出し、画面に浮かんだ『彼』の名前にちくり、と胸が痛む。ほとんど無意

識に壁にかけられた時計を見上げると、午後二時…『彼女』が乗った飛行機が到着する予定の時間はとっくに 過ぎていた。

(無事に彼女と会えた、のかな…)

届いたメールは開かないまま、携帯をポケットへと戻す。

イタリアから戻ってきたばかりの彼女は、到着ロビーに別れたはずの彼が待っていて、きっとすごく驚いているだろう。

到着時間を知っているのは私だけのはずだし、別れた事を知っている私がまさかその情報を流すなんて、思ってもいな

かっただろうし。どうしてここにいるの、そう訊きたくてもきっと、彼女はその言葉を飲み込むだろう。彼女には、彼を傷つ

けた負い目があるのだから。

そんな彼女の隙につけこんで…。荷物持つよ、きっとそんな風に彼は強引に彼女の鞄を奪って、そして…。

まるで見てきたようにするすると思い浮かぶ、二人の姿。離れ離れになる前から、くっついたり別れたりしていた二人を

誰よりも側で見てきた私が心の中で何を考えていたかなんて、きっと二人は少しも気付いていない。

主役はあくまでも彼と彼女で…私はあくまでも傍観者。しがない脇役でしか、ないのだから。

 

ごちそうさまでした、とパートさんに声をかけて湯飲みを洗い、お饅頭の包み紙を捨てて、倉庫の棚へと戻る。

彼女の姿が見えるまできっと、彼は私の事を考えていてくれただろう。彼女の親友で、異国にいる彼女から突然別れを

告げられた彼の話を幾夜も聞き、そんな中、はずみで関係を結んでしまった、女友達の事を。

…けれど。

念願かなって再会出来た今、彼の心の中にいるのはきっと、彼女だけだ。好きな人が出来たの、イタリアに着いてたっ

た一月で心変わりした寂しがりで甘えん坊の彼女を、それでも彼はきっと、すぐに取り戻すだろう。あっちで出来たイタリ

ア人の恋人と離れてまで続く程、彼女は強くはないひとだから。

「えーと。…どこからだっけ」

済、の印が押してある箱を手の平で撫でながら歩き、途切れた棚から新しいダンボールを下ろした。

仮止めしてあるガムテープをはがして、中にある商品をビニールから取り出す。内部に飛び出していたのだろう、ダン

ボールの底に打たれた金色の金具がひっかかり、指先に痛みが走る。

「……ったあー…」

滲んだ赤い雫を口に含み、にじむ視界を、痛む鼻の奥を、ケガのせいだと自分に言い聞かせる。いい年をして、馬鹿だ

なあ、そんな自虐的な思いを鉄の味とともに、飲み込んで。

 

流行中のインフルエンザのせいで作業する人手が欠けていたせいか、全ての在庫確認を終えたのは、午後九時過ぎ

だった。

「うううー冷え込むと思ったら、外、雪降ってるし!」

色気のないマフラーをぐるぐると首に巻きつけて倉庫を出ると、強い風に煽られた雪が舞い上がっていた。積もるところ

まではいっていないけれど、このまま降り続ければきっと、明日の朝はヒールで転ぶOLさんがニュースに映るだろう。

「筒井さん、今日はありがとねー。本社のみんなにもよろしく伝えといてー」

律儀にも、出口まで見送ってくれた工場長に、いえいえーと首を振って早く中に戻ってください、と声をかける。工場の

方々にはこれから、棚卸しの後片付けや訂正入力が待っている。はあ、と吐いた息の白さを楽しみつつ、駅への道を

急ぐ。電車、まさか止まってないよねえ、なんて思いつつ。

手袋を忘れたせいで、外気に触れた手の甲が寒い、というよりもむしろ、痛い。行儀悪いなあ、と思いつつコートに両

手をつっこむと、また震えた携帯を、仕方なくポケットから取り出す。

あの後も、携帯は何度も震えていたのだけれど、仕事中なのだから、と自分に言い聞かせて無視、していた。

『多分、顔も見ずにアイツと別れたから、ひきずってる。…俺も、筒井も。

 だから、ちゃんと会って別れてくるよ…その後に、』

昨日の夜、私のマンションまで来て、律儀にそう宣言した彼はきっと、昨日の時点では本当にそう思っていたのだろう。

…だけど。

私達が過ちを犯したのは、一度だけ、だ。

なりゆきでそうなった次の朝、彼の顔に浮かんでいたのは嬉しさではなくて後悔だったし、つきあおう、まるで罪滅ぼし

みたいにそう告げた彼の申し出を拒んだのは私、だ。責める資格も権利もあるはずもない。

 

メールアプリを開き、何通も届いていたメールのうち彼がくれた最新のもの…無題のそれだけを、開く。

「ごめん」

たったそれだけの本文に、はは、と乾いた笑いが漏れる。

覚悟はしていたけれど…。

たったの、三文字。

電話で彼女に別れを告げられた彼は、納得がいかないと、彼女が忘れられないと、一人では眠れないと、胸が苦しい

と、悔くてたまらないと、嘆き続けた。やっぱり留学なんかさせるんじゃなかった、今頃他の男がアイツに触れているの

か、後悔と慟哭の嵐の中で苦しむ彼を救いたかった。たとえ一晩だけでも温めてあげたかった、そう願った私を切り捨

てるのに費やしたのが…たった三文字だけの、メールなの。

もう何も見たくなくて、聞きたくなくて、携帯の電源を落とした。

案の上、ひよわな電車はこれっぽっちの雪で止まっていて、カンベンしてやー、と思わずお国言葉が漏れてしまう。

泣きっ面に蜂、っていうのは今の私のためにある言葉だろう。

ごめん、そんな簡単な言葉で断ち切られて人目さえなければ泣き喚きたい気持ちなのに、と思いかけて、立ち止まる。

ううん、メールを開けたのが人前で良かったのだ。幸いなことに、頬にあたって溶ける雪のかけらも、切りつけるような

冷たい風さえも全て、私の歪んだ表情を隠してくれているのだし。

しばらくぼんやりとホームのベンチに座って、行きかうひとたちをぼんやりと眺めた。遅延、そんな表示を見上げて、腹

立たしそうに足早に去っていくひとたち。携帯を取り出して、家族にだろう、電話する男のひと。もう遅いのになぜか、赤

ちゃんを抱いたまま、途方にくれているお母さん。

あまりの寒さに歯の根が合わなくなってきた私は仕方なくホームを出、ずらりと連なるタクシー待ちの行列に肩を落と

す。のろのろとその最後列に並び、赤くなった指先を見るともなく見ていると、いきなりがっ、と肩を後ろから誰かにつか

まれた。

「痛っ!ちょっと、何する…って、あれ?」

一言文句を言ってやらなきゃ気がすまない、そんな気持ちで振り向いた先にいたのは、私の下僕…じゃなくて、新人君

だった。長身で嫌味なくらい足が長い彼はスーツがよく似合うんだけど、へえ、こういうラフなカッコもいい感じ、ってそう

じゃなくて。

「…ええっと、大沢くん。こんな所でどうしたの?」

「っ、筒井さん!よ、かった、すれ違わ、なくて」

息を切らしている彼はやっぱり間違いなくうちの新人くんで、いつもはきまっている髪がなぜか今はぺしゃんこになって

しまっている。

「……あれ、大沢くんって、この辺の人だっけ?」

そう言いながら彼を見上げた私の言葉に、違います、迎えに来たんです、と怒ったように答える。迎えにって、え?なん

てまごまごしていると、彼がこっちです、と私の肘のあたりをつかんで私を引っ張るように歩き出す。

「あ、また手袋してないじゃないっすか。もう!」

驚いてポケットから出した手を見咎めた彼は、自分のを外して押し付けるように私に渡す。

「え、いいよ。私雪国出身だし、これくらい、」

「つべこべ言わないで、さっさとつけて下さい。車、あっちに適当に停めてあるんで、急いで戻らないと」

つられるように早足で彼を追う私に、彼は淡々と説明をしてくれた。

雪が降って電車が止まったのが一時間半程前だったこと。彼自身は早めに帰宅していて…。ふと私が心配になって携

帯に電話したけれど出なくて、仕方なく倉庫に電話するとまだ作業中だと聞いて驚いたこと。慌てて携帯に車で迎えに行

きますとメールしたのに、ちっとも返信が来なくて…。こちらに向かいつつ信号待ちでもう一度倉庫に電話すると、ちょう

ど今出たところだと返されたこと。

「そんな、わざわざ、良かったのに。自分でどうにかしたよ。駅で並んでる人、みんな状況は同じなんだし」

半ば呆れたようにそう言った私に、本来は俺が行くはずだったんですし、と怒ったような声で返されたから、仕方なく口を

閉じた。…まあ、ありがたいのはありがたいのだけれど。あの行列じゃ、今日中に帰れた気がしない。

 

「何度も携帯に電話したんですからね。ったく、なんのために携帯持ってるんすか」

不機嫌そうに鼻を鳴らす大沢くんに、ありがとう、と答えつつ、彼の車…なんとBMWの7シリーズだ…の助手席に乗り

込む。

「…親父の車です。俺の、まだスノータイヤ履いてなくて」

なあんとなくお坊ちゃまっぽいなあ、と初めに抱いた印象が間違ってなかったことを知りつつ、私はエンジンをかける彼

の横顔を見つめた。

肌、綺麗だなあ。私と同い年の彼も綺麗な方だったけど…8つも下だとこう、なんていうか質感が違う、っていうか。

何かを確かめるように自分の頬を触ろうとして、つけたままだった大沢君の手袋を外す。

「これ、ありがと。ダッシュボードに、入れとくね」

ちらり、とこちらに視線だけ流して答えない彼は、そのままハンドルを切って雪道を走り始める。

「都会の子なのに、雪道の運転、慣れてるね。

 滑りそうで、結構どきどきしない?」

さっきからずっと不機嫌な彼との車内の気まずさに耐えかねた私がそう話を降ると、スノボーするんで、と言葉少なに

彼は答えた。ふうん、と答えた雪国生まれの私は根っからのスキー派で、年代の差をひしひしと感じてしまう。

「スノボーやるって、珍しいね。今の子って、あんまりアウトドアに興味ないって聞くのに、」

「筒井さん」

ちょうど信号で車を止めた彼は、ぎゅっ、と眉を寄せてこちらを睨みつけた。

「都会の子、とか、今の子、とか…『子』ってやめてくれませんか。俺、これでも社会人なんすけど」

「…あ…うん、ごめん」

一気に気まずくなった雰囲気に、私は会話をすることを諦めて窓の外を流れていく風景へと視線を流す。そういえば、私

の住所を教えた覚えはない。どうして迷いなく走れているのか、と思いかけて合点がいく。そういえば以前、最寄の駅は

教えたことがあるような。

けれど彼は大通り沿いの駅を目の前に左折し、路地を私の自宅の方へと走っていく。

「…え。い、いいよ。こんなところまで入ってきたら帰るの大変だし。次の角で曲がって、大通りの方に戻って。

 もうここまで送ってもらえたら一人で帰れるから」

どうして私の家の方角を知ってるんだろう、そう思いながら彼の肩の辺りに触ると、びく、とはじかれたように彼がこちら

を見る。ご、ごめん、そんなに驚くとは思わなくてさ…。

「停めやすいところで停めて。ほんと、ありがとね。今度、お礼になんか奢るからね」

早口でそう言った私はいつでも降りられるように、膝の上にあった鞄を抱えなおして停車を待つけれど、まるで聞こえな

いかのように、彼は迷いなく私のマンションの前まで車を走らせ、狐につままれたような気持ちのままシートベルトを外そ

うとした私の手の上に、自分のそれを重ねた。

 

「今日、だったんですね」

かけられたのは、質問のように聞こえる、断定だった。

…どうして、と思いかけて、記憶が甦る。あの過ちのすぐ後に課の飲み会があって…やるせなさで飲みすぎた私が、目

の前にいる彼に全てをぶちまけていた事を。

彼氏いるんですか、と多分世間話で話を振ってくれた後輩に、タイムリミットつきだけどね、と笑おうとして、うまく笑えなく

て…聞き上手な相槌に誘われて、彼との微妙な仲はおろか、彼女が帰国する時期までもらしてしまった。

「あー…ええと、うん、そう。はは、案の定、再会してすぐヨリを戻したみたいで、さ。早っ!って感じだよね。

 さっき、彼からメール来たんだけど……ごめん、だってさ。

 たった三文字だよ、メール。省エネにも程があるよね、っていうか、」

「やめてください」

尖った声に含まれているのは、こちらを見据える視線にこめられているのは、なんだろう。

ちりちりと焦げるような緊張感に、目を伏せる。こーんなに年下の子に何を愚痴ってるんだ、私。三十路女が何やって

るんだか、情けない。

 

「……送ってくれて、ありがとう。

 あの、さ。気分悪い話聞かせちゃって、ごめんね。勝手な言い分だけど、聞かなかった事にしてくれると、助かる。

 明日からはちゃんと、もとの私に…しっかりした先輩に戻るから、さ。ホント、ありがとね。じゃあ、」

「……っ!」

ぐい、とひかれた勢いで私が鼻をぶつけたのは、大沢くんの胸、だった。肌触りのいいコートに化粧がついちゃう、そん

な現実的な事を思いながら身を引こうとする私を、彼の腕は許してくれない。

「筒井さんの、どこがしっかりしてるんすか」

吐息さえかかりそうな程近くで、彼がその綺麗な瞳を細める。

「確かに、仕事は完璧です。貴女ほど努力家で、気転がきいて、強引なくせに嫌味がない、そんな女性を俺は他には

 知りません。でも。コートにクリーニングのタグつけたまま会社まで来たり、段差センサーでも付いてるのか、ってくらい

 ほんの少しのでっぱりでもつまづいて転んだり。

 正直、八つも年上なんて全然思えない。貴女はまるで、初恋に落ちたばかりの中学生みたいだ」

あんまりな後輩の言葉に、かあっ、と頬に熱が上がる。確かに私は人よりもよく転ぶし怪我もするけれども!

言うに事欠いて、初恋中の中学生、なんてひどすぎる。中高は女子校だったけど、大学は共学だったし、つきあった経

験だってちゃんとある。私のどこが!

「…そういうとこですよ。考えてること全部、顔に出てます。

 彼女がいる、なんて俺の言葉をあっさり信じて、だから大丈夫、なんて油断して…こんな風に簡単に男の車に乗っちゃ

 うんすからね。最近の中学生の方が余程、しっかりしてるんじゃないっすか」

あっさり信じて、ってどういう意味?怪訝に思った私は、身体を固くしたまま、首を傾げる。

「彼女…いる、んだよね?言ってたよね?すごく好きで、でもなかなか振り向いてくれなくて…。

 初めて本気で好きになったひとで、だから、一生懸命口説いてやっと両思いになった、って…」

大沢くんに全てをぶちまける前に、聞いた話だ。まるで目の前に彼女がいるかのように、いかに自分の好きな女の子が

魅力的か、とうとうと語った彼の言葉が嘘だなんて、信じられない。こんなに素敵な男の子に…私から見たらすごく年下

だから私にとっては対象外だけれど…こんなに思われているなんていいなあ、うらやましいなあと思った覚えがある。

それに比べて…と自分をみじめに思ったことも。

「あれは、あの時の話は、未来予想図っていうか、願望っていうか…もしかして妬いてくれないかなー、なんて…

急に口ごもる彼の頬が、赤く染まる。訳分からん。またもや浮かぶお国言葉を頭から追いやって、彼の手を押しのけ

る。悪いけど、彼のコイバナを良かったねーと聞けるほど、あいにく今日の私に余裕はない。

「ああ、もう。どうしてそう、鈍いんですか」

鈍い?と眉をひそめた私の方へ彼の右手が伸びてきて…首の後ろを支えられ、気付けば唇を塞がれていた。

 

「ん、ん、んんんーーー!!」

一度、二度。

つよく押し付けられた唇は熱くて、待って、と抗議を唱えようとした私の唇が開いた途端、もっと熱い舌が生き物のよう

に、私のそれに絡み付いてきた。

ちょ、ちょ、ちょっと待ったーーー!なんでいきなり、こんな事に!

逃げようとする私の舌を追いかけるように侵入したそれは、根本をしごくように蠢き、首を支えるのとは逆の腕は、掻き

抱くように私の腰に回されていて…。いきなりの出来事に、与えられた熱情に、そして何よりも酸欠でのぼせた私の頬

に、まぶたに、額に何度もキスを降らせた彼が、ようやく息を整えて、私の左頬と、自分の右頬をぴったりとくっつける。

どうして、とつぶやいた私の言葉を無視した彼は、少し頭を起こして私の耳たぶに小さなキスをひとつ、落とす。

「…貴女が俺の事を男として見てないことくらい、知ってます。

 貴女の優しさに付け込んだ、あの最低男のことをまだ好きなんだ、って事も。

 本当はまだ、出来の悪い後輩のままでいるつもりでした。残念だの下僕だの…なんて呼ばれたってかまわないから、

 そばにいていつか、って。

 だけど、もう、見てられない。そんな泣きそうな顔で無理に笑って、自分で自分を傷つけて。

 頼むから、もっと自分を大事にしてください。

 俺は、貴女が好きです。…どうしようもないくらい、惚れてます。今すぐじゃなくてもいい、いつまででも待ってるから、

 だから。

 …俺を男として見て。…俺を好きになって。」

今まで私が知っていた大沢くんとはまるで違う男の顔で、口調も、そして声さえ違うその言葉にこめられてるのは、冗談

なんかじゃなくて、からかっているのでもなくて…多分本当の気持ち、で。

ふ、と緩められた腕の中で右手を動かし、そっと彼の頬に自分の手の平を這わせる。すべらかな、シミ一つない肌を

撫で、人差し指と中指で形のいい唇にそっと触れる。綺麗だなあ、と思う。こんなに綺麗な男の子…男の人に想いを寄

せられてキスされたのか、と思うとじんわり、と嬉しい気持ちはある、けれど。でも。

 

「私…ね。

 彼に…まるで辻褄あわせみたいに付き合おう、って言われた時にね。

 彼女をまだ好きなんだから、その気持ちに従った方がいい、って言ったの。忘れなきゃ、そう決めて他のひとを側に置

 くのは、彼女にも私にも…自分の恋心にも失礼だよ、って」

ぽろぽろと頬を流れ落ちていく涙。それを拾うように私の顔を両手で包み込んだ彼と私の額が、そっと触れる。

伝わってくるのは彼の体温と、私を想ってくれている、気持ち。ぺしゃんこになったプライドを、踏み荒らされた恋心を慰

めてくれて、ありがとう。…でも。

「好きだって言ってくれて、ありがとう。

 今日、一緒にいてくれて、ありがとう。でも、ごめんね、今は、まだ、何も考えられない。私、」

「俺、諦めませんから」

それ以上の言葉を遮るように、彼が会話を断ち切る。

「答えるのは今すぐじゃなくていいって、そう言ったはずです。

 俺、気が長い方じゃないけど、筒井さんのためならなんだってします。足に困ったらいつでも電話してくれれば迎えに

 行くし、手袋だのマフラーだの、すぐどこかに置いてきちゃわないように、近くで見張ってます。それでも寒ければ、俺、

 いつでもこうやって温めてあげるから、だから」

包み込むように私の手を取った彼の瞳が、潤む。

最近の男の子ってすぐ泣くよねえ、同年代の友人たちとそう、笑っていたけれど…。

はらり、と零れ落ちた涙があまりにも綺麗で、気がつけばなぜか、彼の言葉に頷かされていた。ありがとう、と私を強く

抱きしめたその顔が実は、私の肩の上でしてやったり、という笑みを浮かべていたなんて、ちっとも気がつかずに。

 

翌日から、まるで生まれ変わったかのように大沢くんの仕事ぶりが上がった。っていうか、え、まさかアンタ、手を抜いて

た…?そう疑問に思う私に、そんなワケないじゃないですか、と微笑む彼の笑顔は胡散臭いことこの上なかったのだけ

れど…。

とりあえず。

『筒井さんの下僕』から『筒井さんの番犬』にランクアップされた彼が、仕事中はともかく、プライベートの私を追いかける

ようになったおかげで、『彼』の事を思い出してなく暇さえないのは良かった…のか、な?

 

「世の中は、起きる可能性が高いことから、起きる」

八つも年下の、だけどイケメンくんに言い寄られて私が恋に落ちる可能性と…。

毎年次々に入社してくる可愛い女の子たちに彼が目移りする可能性。

さて、どっちが先に起こる、のかな?

 

終わり

 

 励ましのヒトパチ、お待ちしてます。

 

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